<ハワイの文化・歴史編>

◆ 010 ホレホレ・ソング みなと - 2003/07/30(Wed) P-BBS ◆


カネ(亭主のこと)に書かせた 郷里(くに)への手紙 読んで夫婦の 泣き笑い

汗にまみれて ホレホレすれば 赤い夕陽が 目にしみる

荒板造りの 月もる部屋に 昼の疲れを 抱いてねる

条約切れたら キウナに乗って 行こかマウイの スペクルへ

マウイのスペクルス・ビル製糖工場(のちのプウネネ製糖工場)の耕主スプレックスは東洋人を蔑視する耕主が多い中、日本人労働者に理解があり、他の耕地と比較して労働条件がよく、その噂は各島の
日本人労働者に知れ渡っていた、と言う背景があった。




◆ 011 サトウキビ畑の労働 みなと - 2003/07/31(Thu) P-BBS ◆

砂糖耕地の労働は主に畑仕事と工場作業の二種類があった。
中でも畑仕事にはホレホレ・ソングの名前の由来となったホレホレを初めいろいろな作業がありその作業は移民労働者達の間でユニークな名前で呼ばれていた。

当時のハワイではサトウキビは植え付けられてから収穫まで1年半の期間を要した。
まず最初の作業が【ホウハナ】、ホウは英語のHOE(鍬)とハワイ語のHANA(労働)の混成語で文字通り鍬で荒地を耕し畦を作り、除草をする仕事であった。この仕事に従事する人をホウハナメンと呼んだ。
さらに溜池などから灌漑用の掘割を通してサトウキビ畑に水を引き込む作業を【ハナワイ】と呼んだ。ハナは先程と同じ労働や仕事という意味のハワイ語、ワイもやはりハワイ語で水を意味である。

次の作業がホレホレ・ソングの由来となった【ホレホレ】で、ハワイ語でサトウキビの枯葉をむしり取る作業のことである。畑仕事の中では一番単純で力が無くてもできるので、主に女性の仕事であった。
力はいらないとは云えキビの葉には鋭い棘があり、これから身を守る為に木綿の絣で作った長袖の上着厚地のモンペをはき、手足には手甲脚絆を巻きさらにハワイの強い日差しを避ける為に麦わら帽子を被りその上に手拭いで頬かむりをした。こんな格好でハワイの炎天下、背丈より伸びたキビ畑の中の仕事であるホレホレはやはり過酷な労働であった。
この重労働の最中、その辛さを少しでも紛らわし気分転換にと自然発生的に、故国日本の謡曲調の節回しでで即興で歌われだしたのがホレホレ・ソングの始まりと言われている。

そして1年半後、刈入れの時期を迎えると最初に畑に火を放ち葉を焼き払う。次に巨大な専用ナイフで茎を刈り倒していく。この作業を【カチケン】と呼んだ。カチは英語のCUT、ケンはCANEが訛ったものだ。
カチケンが済むと収穫したキビをミールに送る為に簡便鉄道の貨車に積み込む作業が待っている。この仕事は【ハッパイコー】と呼ばれた。ハッパイはハワイ語で抱えて運ぶこと、コーはサトウキビを意味した。ハッパイコーもまた束ねたキビを肩に担ぎ上げ運ぶという、屈強な男にとっても体力を要する重労働であった。
このような過酷な労働の中で無数のホレホレ・ソングが誕生して、人から人へ、耕地から耕地へ島から島へと歌い拡がっていった。

ホウハナマンの  流せる汗は  キビの甘味の  汁となる

故郷(くに)を出るときゃ  笑顔で出たが  今日もカチケン  生き地獄

ハワイ、ハワイと  来てみりゃ地獄  ボーシが閻魔で  ルナは鬼
※ボーシは耕主。ルナは現場の作業監督、主にポルトガル人がその任にあたり労働者に対して非人道的な扱いをする事が常であった。

参考文献
「ホレホレ・ソング」ジャック・Y・タサカ 著
「行こかメリケン、帰ろかジャパン ハワイ移民の100年」牛島 秀彦 著
「ハワイ語文法の基礎」塩谷 亨 著
「ハワイアンワード・ブック」滝川 徹 著




◆ 013 初期の官約移民の様子 みなと - 2003/08/01(Fri) P-BBS ◆

官約移民が始まった当初(1985年開始)日本人は期間3年、耕地では1日10時間(工場は12時間)月に26日間の働き、月給は男性9ドル他に食糧費6ドル(女性は6ドルと同4ドル)住居と炊事用薪炭は無償提供の契約でハワイへやって来た。この賃金は当時の日本の平均賃金の約90倍と言う破格のものであった。しかしハワイ定住を考える者は無く、多くは農村からの出稼ぎ者としての渡航であった。誰もがハワイで蓄財し、3年の契約終了時には錦衣帰郷を果たす夢を持っていたである。【ハワイ出稼ぎ人】への勧誘の謳い文句も、それがあたかも容易に叶うかのような美辞麗句が並べられ、またその幻想は口コミとしてデフレと凶作による貧困に苦しんでいた中国地方の農村を中心に拡がっていた。

しかし実際のハワイでの耕地労働はホレホレ・ソングに歌われたように苛酷なものであった。
朝は4時半に起床の笛が鳴らされ、5時からの【カウ・カウ】(ハワイ語で食事のこと)後、朝6時から夕方4時半まで耕地での労働に追われた。その間、休憩は昼食時の11時半から正午の僅か30分間のみであった。
また、女性は耕地労働以外に炊事や洗濯等の家事の負担が本来楽しみのはずの【パウ・ハナ】(ハワイ語で仕
事を終えた後の事)に、重く圧し掛かった。
病気の際は耕主指定の医師の許可がなければ仕事を休む事は出来ず、またその許可も相当の重篤な病状で
なければおりなかった。臨月の妊婦が休暇を与えられず、無理して働いているうちに産気づきサトウキビの
葉陰で赤ん坊を産み落とすこともあったという。

ハワイ、ハワイと    夢見てきたが    流す涕は    キビの中

雨がしょぼ降る    カンカン出鐘    追いたてルナの   靴がなる

ルナの目玉に    蓋をして    ゆっくり朝寝が    してみたい

高い熱でて    畑で寝たら    ルナに見られて   叩かれた

醤油飲んだが    待つ間に醒めて    果てはコロコロ    カラボーシ
※醤油を飲むと高熱が出ると聞いて、仕事を休みたい一心で飲んでみたものの早く飲みすぎてしまった為に 医師の診察を待っている間に熱が下がってしまい、仕業がばれて裁判所にかけられ刑務所に送られたことを嘆いた唄。コロコロはハワイ語で裁判、カラボーシは英語のCALABOOSE・刑務所のこと。

労働者達は名前で呼ばれる事は無くナンバリングされた金属製の札を身に付けさせられ、その番号で呼ばれ管理された。この札は後にハワイ全島の耕地で【バンゴー】(番号)と呼ばれるようになる。
耕地内では耕主資本によるジェネラル・ストアが経営され、労働者達はこの店で食料品から日用品までを<掛け>で購入し、月末にこれらの支払いを精算の上給料が支給された。概してこれらの店の価格は通常の店と比較して相当割高に設定されており、給料の実質的な減額の仕組みとなっていた。

また耕主は賃金を初めとする待遇全般に対する労働者全体の不満が一致して耕主に向けられる事を恐れ各国労働者間の待遇に段階的な差を設けることにより労働者の人種間の不信を助長させ、彼らが連帯して行動を起こすことを未然に防いでいた。最も悪条件であったのは原住のハワイ人である。【カナカ人】と呼ばれた彼らはその特異な容姿もあり、ことさら蔑視され労働者たちの不満の捌け口ともなっていた。後に沖縄出身の移民が来ると日本人はまた彼らを差別するという面が多々見られたようである。古今東西の為政者が取る手段とはいえ耕主側にとって初期の一定期間において功を奏した戦略であった。

薔薇も牡丹も    枯れりゃひとつ    花でありゃこそ    分け隔て
※白人がに日本人移民を蔑視しいていることをあてつけた唄

作業監督であるルナの非人道的な振舞いについての多くのホレホレ・ソングが残っているが、加えて同じ日本人労働者の中にも耕主から幾許かの割増金を支給され、労働の効率を高めるペースメーカーの役割をする者がいた。【ヒッパリメン】(引っ張り屋)と呼ばれる人々である。何時の世にも体制側に寝返る人間は厳しい評価を受けるがルナの手下となり同胞に労働強化を為さしめる彼らヒッパリメンに対する「恨み節」ともいえるホレホレ・ソングも多く歌われた。

ゴーヘ、ゴーヘと    急きたてられて    ルナを殴った    夢を見た
※ゴーヘはGO AHEAD(急げ)のこと

追って来なされ    文句はやめて    口でホレホレ    するじゃなし
とヒッパリメンが唄えば、

追って行かりょか    オマエのあとに    ワシにゃ増し金    あるじゃなし
10銭(セント)もらって    引っ張る奴は    犬に食われて    死ねばよい
と唄い返したという。

そのような辛く厳しい耕地での生活にあって、ハワイ諸島間を就航していた「キウナ」号の寄航は労働者達にとって特別な意味があった。
まだ日本人社会としてのハッキリした輪郭が形成されていなかった移民初期では外部と隔絶された耕地の生活では、日本からの直接の寄港地であるホノルルの様子や他の耕地の情報そして彼ら何より日々待ち望んでいた日本の故郷からの手紙や物産品が唯一、キウナ号によってもたらされるのであった。
なだらかな斜面にあったサトウキビ畑では港に近づくキウナ号の船影が見えると、明日には手許に届くであろう故国からの便りに想いをはせ、しばし労働の手を休め期待に胸を躍らせたという。平素は馬上から鞭を持って彼らを追い立てるルナもこの時ばかりは、為す術も無く見守るしかなかった伝えられている。

今日のホレホレ    辛くはないよ    きのう届いた    里便り

辛いホレホレ    こらえてするよ   故郷(くに)にゃ    女房や子までいる

参考文献
「パウ・ハナ  ハワイ移民の社会史」ロナルド・タカキ著
「図説ハワイ日本史  -1885〜1924」王堂・F・正一郎、篠遠 和子共著
「ハワイ移民 修羅の旅」エヴェリン・ヨキ・シロタ著




◆ 014 混乱と廃頽 みなと - 2003/08/03(Sun) P-BBS ◆


1885年944名の渡航者で始まった官約移民は1893年には総計29000名もの人数を数えるに至った。官約とは言え、回が進むにつれ中には偽装結婚により渡航する者も現れ素性の妖しげな人間も少なからず渡布していった。この傾向は官約移民制が廃止され、民間の移民会社による私約移民制度になると一層顕著となる。

日本と比べて破格の賃金に惹かれてハワイにやって来た彼らではあったが、当地の物価水準からして生活していくのが精一杯というのが現実であった。住居の無償貸与も単身者には蚕棚のようにベッドが並ぶ7〜15人程度の相部屋、夫婦者も簡易な壁で仕切られた一部屋のみであった。また、耕地キャンプには排水設備がなく周囲には汚水が溢れており、豚小屋のような有り様だったという。キャンプ周囲の空き地には日本から送ってきた野菜の種などを蒔いた畑も作られ、収穫した野菜は副食に用いられた。このような生活の中で、当初の目的であった蓄財をなすには極めて質素な食事に甘んじ、回りの者から「汚い」と蔑まされるくらいの粗末な衣服を着るなどして倹約に努めるか、耕地労働後の時間を使い他の単身者の洗濯や食事を請負うなどのアルバイトに励むしかなかった。これらの待遇に対してはルナによる非人道的扱い等を含め、初期より日常的に耕主に改善要求がされていたが眼に見える改善には至らず、後に組織的なストライキへと繋がっていく。

3年間の労働契約を満了する者も現れ目論見通り帰国を果たす者、引き続き耕地労働を続ける者、貯金を元手に商店経営に転身するものなど日本人移民社会にも流動化が見られてきた。同時に、人口の増加とともに耕地の日本人社会には数々の問題も噴出していた。

耕地では20〜30歳の独身(単身)男性が圧倒的に多く、男性と女性の人口比も4対1であり、その女性の多くは既婚者であった。先に記したように粗末な長屋風の住居に数百人の男女が群居しており、彼らの日常のいでたちは気候と貧しさから男はランニングシャツのような肌着にズボン姿、褌ひとつという者も珍しくなかった。女性の方も簡易な筒袖着、人によっては腰巻一枚の者もいた。風呂や便所は男女共用であった。そのため、男女間の風紀の乱れが特に激しく、不倫は言うに及ばず強姦事件や夫によって妻である女性が商品の如く金銭で売買されたり、馬やミシンと交換されるなどの悲劇も稀ではなかったという。
他方、女性の方でも日々の耕地や家事の重労働に嫌気をさし、みずから売春を行う者がでるなどの社会的混乱が随所に見られた。また、耕主が週末や【ペイ・デイ】(給料日)後の土曜日には売春婦を呼び寄せることもあった。

また、既に官約移民第1回船の渡航者により博打の風習が耕地に持ち込まれ、娯楽の無い生活の中では広く根付いていた。当然、それにつれて借金の等の金銭トラブルも発生して刃傷沙汰や無頼に身を落とす者もいた。これに加え、一世代前にハワイへやってきて既に経済的基盤を築いていた中国人がホノルルのホテル街からパウアヒ街、マウナケア街一帯にチャイナタウンを中心に中国式賭博場を開設しており日本人移民も多く出入りするようになっていた。
そして、これらの日本人の無頼や博打を本業とする博徒の出現が、ホノルル・リバー街を根城に博打場や【魔女屋】(まめや)と称される売春宿を経営する暴力組織、日之出倶楽部、義侠クラブ、大和クラブ、一心クラブの誕生へと繋がっていった。これらの組織は官憲とも結託し闇の勢力としてハワイ日系人社会に少なからない影響を及ぼす事になる。

頼母子落として    ワヒネを呼んで    人に取られて    ベソかいた
※無尽の頼母子講を落としたので、喜んで日本からワヒネ(ハワイ語で女・妻の意味)を呼び寄せたものの他人に取られて嘆いている様子の唄

ハナワイ済まして    キャンプに戻りゃ    憎いやマウナにゃ    夫婦星
※ハナワイ(灌漑・水引仕事)をやっと終えて疲れて帰ってきたけど、マウナ(ハワイ語で山)の上の星までもが二つ仲良く並んだ夫婦星なのに、それに引き換え自分にはやさしく労わってくれる妻もいない切なさを唄っている。

明日は    サンデーじゃ    カネはハナワイ    わしゃ家に
※明日は日曜日だけど、自分のカネ(夫)は水引仕事で1日中仕事だから、夫がいない間に家に来いと情夫に誘いかけている妻と何も知らずに働く夫を揶揄した唄

35銭で    ホレホレよりも    パケさんと    モイモイすりゃアカヒマヒ
※1日の賃金35セントで辛いホレホレ仕事をするよりもパケさん(中国人のこと)とモイモイ(寝ること)すればマカヒマヒ(75セント)になるからその方がよっぽど楽だと、中国人相手の売春をする女を歌った唄

旅行免状の    裏書見たか    間男するなと    書いていない
※夫から浮気をなじられた妻が開き直っている様子を唄っている

カネがフウフウすりゃ    出て来いワヒネ    連れて行きます    ホノルルへ
※夫がフウフウするなら(ハワイ語で怒るの意味)さっさ家を飛び出して、自分と一緒にホノルルへ行って世帯を持とうと男が誘っている唄



◆ 015 請けキビ みなと - 2003/08/04(Mon) P-BBS ◆

混沌とした耕地の日本人社会ではあったが、その一方で労働者の中からは増給運動にリーダーシップを発揮する者や事業経営に才覚をみせる者等、一団の中での指導者的立場を担う者が現れてきた。

耕主側もまた労働者の増給等、待遇改善要求が活発に行われる状況の中で、耕地労働における日本人の勤勉さを見て取り、労働者にグループを作らせサトウキビの植付けから収穫までの作業を一括して請負わせる【請けキビ】なる制度を導入し始めた。

10数人から数十人単位でリーダーの下で【コンパ】というグループを作り、耕地内の一定エリアを耕主から借り受け自らの責任で栽培作業を行なうのである。耕主からは収穫量に応じての請負代金が、収穫時までの1年半の生活費等の前借金を精算の上、一括してリーダーに支払われコンパのメンバーに分配される仕組みである。
守備よく多くの収穫を上げることができれば従来の月給制の賃金より多くの収入が見込め、自ずと仕事へのモチベーションは高まったが、片や天候等の影響での凶作や不作による収穫量の低下、砂糖相場の下落により耕主のサトウキビ買い取り価格(請負代金)の不振などのリスクも高く、年によっては高額な借金だけが残るということもあった。
コンパ内では耕地作業労働の効率を図る為、グループ内の女性がひとりあたり月1ドル前後の手間賃を徴収しメンバーの食事、洗濯を引き受けるケースが多く見られた。この仕事も大きいコンパでは30〜60人にもなることもあり冷蔵庫や洗濯機もない当時では耕地労働にも勝るとも劣らない、昼夜兼行の重労働であったという。
しかしながら【請けキビ】は当然、移民達を慮っての事ではなく耕主側にしてみれば契約満了後の移民をなおも耕地労働に就業せしめ、かつ労働意欲を煽る手立てであったに過ぎなかった。
それゆえ、ルナの非人道的な振舞いが無くなった訳でも、耕主の東洋人、日本人に対する蔑視政策が改まった訳でもなかった。却って耕地内は、事業規模の拡大、労働者人口の増加につれて大小のトラブルは多発し、見せしめ的なリンチによる日本人殺害事件も起きる等の不穏な世情であり、耕地内の日本人労働者乃至ハワイ日本人移民全体の連帯の必要性を訴える世論が喚起されていった。

当初は耕地内の労働者同士の互助的性格が強かったこの【請けキビ】であったが、時を経ずして商才に抜きん出た者や強力な指導力を持った者達により業(なりわい)として行われるようになり、更には数百人から数千人という日本人労働者を使った大規模な事業として発展しいていった。彼らは周りから【カントラッキ・ボーシ】(Contract boss)と呼ばれるようになる。そして彼らの中にはこの事業により急速に財をなし、日系人社会はもとよりハワイの官界や経済界に影響力を持つまでに至った者も現れた。
耕地労働者の出身ではないが、1915年当時にハワイ島ヒロの南方、キラウエアの東側山麓の広大なオーラア耕地で2000人もの日本人移民労働者を使って開墾も含む総合的なプランテーション事業を請負っていた岩崎次郎吉はその代表格といえるだろう。現在は過疎の街となってしまっているオーラア内のカーチスタウン街にはIwasaki Camp Roadと云う地名が残り、参考文献(1985年出版)に拠れば往時を偲ばせるプランテーションコテージを初めとする幾つかの建物が老朽化しながらも現存しているとのことである。(現時点での存在は未確認)また、当地にオーラア仏教会堂として開創され、現在もIwasaki Camp Roadにあるカーチスタウン浄土院は1908年当時、既に境内地約8エーカー(約9800坪)小学校を併設し、広い墓地もそなえ檀信徒数も1000名を超えていたとのことである。当然この寺院の創建、維持にも岩崎が関っていたと思われる。
当時ハワイ総領事を勤めていた斎藤幹は後年著した「布哇成功者実伝」の中で、岩崎の住まいについて「邸宅は数棟ありて、室内の美麗なる装飾の整備せるは白人に一歩も譲らざるなり。されば名士の此処を過ぎる者は必ず君を訪問して一泊を乞う者多し」と記した。また、仕事着として陸軍将校を擬した詰襟服を着用していた岩崎は「乃木」「東郷」「明治」「大正」「慶応」と名付けた耕地見回り用の馬を所有し、巷間、「岩崎ボーシの馬の一歩は5ドル」と言われたというエピソードが残っているが往時、如何に大規模に請負事業を展開していたかが容易に想像される。
ぜひ機会を作ってハワイ島旧オーラア地区を訪ねて見たいと思う。

【請けキビ】を唄ったホレホレ・ソング

無事にカチケン    済ましてうれし    苦労の甲斐ある    キビの出来

汗を流して    つくった報い    今日はカチケン    おめでたや

カチケン済まして    勝ち鬨あげて    賞金とって    帰朝かや

※同じカチケン労働でも既出の辛く厳しいカチケンを嘆いたホレホレ・ソングとの対比に注目できる

参考文献
「ハワイに翔けた女 −火の島に生きた請負師・岩崎田鶴子−」ドウス昌代 著
「ハワイの辛抱人 −明治福島移民の個人史−」前山隆 編著

参考HP
浄土宗海外寺院紹介   http://jodo.jp/51-003/



◆016「信用メン」と「オキンタマメン」-ハッパ語(混成語)-みなと 2003/08/10 P-BBS◆

英語を母国語とするアメリカ人が経営し、各国移民が入り混じって働く耕地にあって、言語の違いによるトラブルやそれに端を発した悲喜劇は数多しれなかったようである。もともとその国民気質から一団に固まり他国人と交わらない日本人労働者だったが、日本人同士に限ってみても沖縄、九州、中国、四国、東北の各地方から集まってきた移民達の間でそれぞれの方言が飛び交い、互いに外国語のように聞こえる場面もあったという。
しかし日々の暮らしの中ではなんとか意思を通じさせなければならず、そこから独特の【ハッパ語】が生まれてくる。ハッパとはハワイイ語で混ぜる、混成との意味である。既出のホレホレ・ソングにも見られたような広島、山口、熊本等の日本各地の方言や英語やハワイイ語(カナカ語)が混成された言葉や正式な日本語教育を受けていない子供達が他国人の子供同士との交流から自然と身に付けてしまった表現法がそれである。
これらの中には現在のハワイイにも広く一般化して根付いているものもあるが、耕地キャンプでの暮らしが終わり日系人の世代が進むにつれて自然に消滅していったものも多い。そんなハッパ語の幾つかを見ながら、当時の日本人社会の有り様に少し触れられたらと思う。

「ペイデイにサトウ屋オッピスにラインナップしたけど、チェックアウトしたらパウよ。仕方ないから今月も晩ハナでサイド仕事よ」
サトウ屋オッピスはシュガープランテーションの事務所(オッピスはOFFICEの移民読み)のこと給料日に耕主事務所に並んだけど、(キャンプ・ストアの買物分)を精算したら、それで終わりだよ。今月も夜なべ仕事で副業(に精を出さないとだめだ)よ
多くの英単語は当然文字からではなく耳から聞こえる音として、日本人たちの間に根付いていった。

「パパ、ハナハナ、ハウス、オラン。ミイ、ママ、ハナハナ、よう来ん。」
父は仕事に出ていて、家にはいない、母は仕事で来られないと言う意味。九州出身者の言葉と思われる。

「トウディね、ミイのボーシがね、エッとトーマッチ・フウフウでのお。ミイはギブアップしてしもうてヤングギョールとカウカウに行って来たのよ」
今日は(仕事の)ボスが大変怒ってしまったので、気分を晴らしに若い女の子と食事に行って来た。
広島地方の方言が垣間見られる。

「ミイ、ハナハナ、ノーライキよ」
私はきつい仕事は嫌いなのよ。「I」や「My」はあまり使われずに、適用に関らず「ME」が用いられるケースが非常に多い。

「オールメン」
ハッパイコーに代表される耕地における単純肉体労働者のこと。ほとんどの移民達がそうであり、使用者たるアメリカ人が耕地労働者を前に彼らを指して頻繁に使用した言葉が伝わり、それが転化されていったのが語源と推察される。

「辛抱金」
耕地労働による貯蓄金のこと。「辛抱する」と言えば働いて金を貯めるの意味であった。
「300円(ドルの意味)辛抱したら故郷(クニ)に帰る」「1年辛抱したのを全部バクチですった」のように用いられた。

「信用メン」
他県人や他国人に対して信頼の厚い県人代表者、あるいは日本人代表者。当然同胞社会にあって人格者として評価され指導的立場にあった者に用いられた。

「オキンタマメン」
信用メンに対して、こちらは耕地経営者のアメリカ人におもねり、日本人同士の連帯を裏切った人間のことで、侮蔑的評価である。語源的には上下関係の厳しい相撲社会で付け人が関取の機嫌を取る為に風呂場で背中を流すに止まらず、卑屈に局所まで洗う有り様から来ている、との説が有力と言われている。

この「辛抱金」「信用メン」「オキンタマメン」は現在の日系人社会ではまず使われていないがこれらの言葉を始め、当時の日本人社会にはあっては渡布の目的、その人間の社会的評価を決定的にするにような極めてシンボライズな言葉が多々使用されていた。